荒木信子さん(仮名)は、特別養護老人ホームの職員とバラ園を散策していた。
特別養護老人ホームに入所して4年・・・信子さんは98歳になっていた。
「おかあさん!」という呼び声に信子さんが見た先には、娘の恵子さん(仮名)の姿があった。
二人の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
10年ぶりの母娘との再会・・・母娘は嗚咽しながら抱き合ってしていた。
荒木信子さんは、65歳の時に夫を癌で亡くし、その後は自宅で一人暮らしをしていた。
多趣味で、行動的な信子さんは、友人も多く、俳句や短歌などの集まりや、社交ダンスなどにも定期的に出かけていたという。
また、旅行好きな信子さんは、友人との旅行や娘さんとの温泉地への旅行も定期的に楽しんでいた。
娘さんは25歳で県外に嫁ぎ、二人の子供さんがおられたが、既に独立し、夫婦だけの暮らしとなっていた。
信子さんにはもう一人、長男でフリーのカメラマンの正美さん(仮名)がおり、妻の房子さん(仮名)と市内にスタジオを経営していた。
長男宅は、スタジオ兼自宅となっており、信子さんの家から1キロも離れたいない場所にあり、時々、長男が様子を見に訪問していたという。
信子さんが87歳の時、友人との旅行中に転倒し、救急搬送され、大腿頸部骨折と診断された。
長男宅に連絡が入り、長男夫婦が旅行先に出向き、入院や手術などの手続きを行い、退院するまでの間の世話をしたという。
長男から連絡をもらった娘さんも旅行先の病院に出向き、手術の日は病院で付き添おうとしたが、嫁の房子さんから「手術が終わったら、私たちが母の世話をするから来なくていいですよ。」と言われ、術後の対応は遠方でもあったことから長男夫婦に任せてしまったのだという。
入院から一カ月程経過した頃、退院が近いと聞いていた娘の恵子さんは、久しぶりに母への病院へ出向いたが、信子さんは既に退院していた。
娘の恵子さんは、時々嫁の房子さんへ連絡し、信子さんの状態を伺っていたが、いつも「大丈夫!すごく元気だから!」との話だったので、安心して任せていたのだという。
恵子さんは、お嫁さんに連絡し、退院後の状態を伺うと、「お義母さんの事は私たちに任せたんですよね!お義姉さんは口を出さないでください!」と言われ、一方的に電話を切られたという。
恵子さんは、信子さんの家を訪ねたが、住み慣れた実家には【売り物件】の立て看板があり、室内は何もなかったという。
恵子さんは、弟である正美さんに連絡し、信子さんの現在の行き先を聞くも、はっきりとした場所を教えてもらえず、様々な病院や施設などに連絡するも信子さんの行き先が分からなかったという。
その後も何度も連絡するも教えてもらえず、近隣の病院や老人保健施設、有料老人ホームなどを探したが、信子さんの行方は分からずじまい。
また、沢山の思い出が残る実家は更地となり、新しい家が建っていた。
恵子さんと正美さん姉弟の関係も険悪な状態となり、数年後には絶縁状態となっていた。
退院後、信子さんは、お嫁さんの実家近くの県外の老人保健施設に入所していた。この老人保健施設は、お嫁さんの友人の医師が経営しており、事情を話したところ、直ぐに入所させてくれたのだという。
信子さんは、その老人保健施設で6年もの期間を過ごしていた。
荒木正美、房子夫妻が信子さんの入所相談で特別養護老人ホームに出向いた時は、信子さんは93歳になっていた。
半年後、信子さんは特別養護老人ホームへの入所が決まった。
信子さんに認知症は認められなかったが、表情は硬く、口数も少なく、生きることをあきらめているように思えた。
家族構成欄には娘である恵子さんの名前はなく、緊急連絡先は長男夫婦、もしくは孫となっていた。
信子さんが、特別養護老人ホームへ入所して3年くらい経過したころ、生活相談員に一本の電話が入った。
「荒木信子の娘で恵子と申します。母に面会したいのですが・・・施設にボランティア活動で伺っている私の友人が、母を見かけたというので・・・」という内容の電話だった。
実の娘さんが居ることを知らない生活相談員は、身元引受人である長男に確認の電話を入れたが、「会わせないでください!」の一点張りだったという。
生活相談員は、信子さんに娘さんがいるのかと尋ねたところ、軽くうなずいたという。そして、娘さんに会いたいですか?と聞くと、大粒の涙を流したという。
しばらくして、娘さんである恵子さんから再度連絡があり、「母も98歳になり、生きている間に一度でも会いたいと思います」と懇願された。
相談員は、「実は、5月6日に、施設外行事でバラ園に行きます。信子さんも参加されるので、10時にバラ園に行かれるというのはどうでしょうか」と娘さんに伝えたのだ。
母娘、10年ぶりの面会は、信子さんに生きる力を与えてくれました。
息子夫婦に隠れて、時々面会に訪れるようになりました。
骨折を機に、人生の全てを奪われてしまったと信子さんは言います。
預金通帳も嫁に管理され、家も売られ、生かされていることに苦痛しかなかったと言います。
「息子が情けないんですね。でも・・・そんな情けない息子を育てたのは私ですから・・・。」と信子さんは言いました。
それから2年後、信子さんは特別養護老人ホームで安らかに息を引き取りました。