地域包括支援センターに、親しい知人(松隈さん:仮名)から一本の電話が入った。
九州で一人暮らしをしている父が朝から電話に出ないのだという。
普段は、一カ月に一度くらいしか電話をしないのだが、今朝は、虫の知らせなのか、急に父に電話をしなくてはいけないという気持ちに駆られたという。
父である英男さん(仮名76歳)は、病院や買い物で家を空けることはあっても、丸一日電話に出ないというのは何かあったとしか考えられないという。また、64歳の時膵炎に罹患し入院、朝晩のインシュリンの皮下注を自己接種していたことも松隈さんを不安にさせていた。
また、一年前には肺癌が見つかり、右肺の下葉の一部を切除したばかりであった。
低血糖で倒れているのかもしれない・・・最悪の事も脳裏をよぎり、九州の英男さんの住所地にある市町村の地域包括支援センターに連絡し、直ぐに訪問してもらうよう依頼した。
しばらくすると、地域包括支援センターから依頼された担当地区の在宅支援センターの相談員(坂本さん:仮名)から直ぐに自宅へ出向いてくれると連絡があり、その後の対応は、松隈さんと連絡を取り合うよう調整を行った。
しばらくして、松隈さんから電話があり、英男さんは、居間の畳の上で、腹臥位状態で倒れており意識がなく、救急搬送したとのこと。
知人は、深夜に車を走らせ九州へ向かったのだ。
知人が英男さんと面会できたのは、翌日の病院のICUであった。
到着した時には、救命センターでの治療の甲斐があり、翌日には意識はもどってはいたが、右胸部と右頬部には大きな褥瘡が出来ていた。
特に右胸部の褥瘡は壊死しており、脱水もひどく、もう一日発見が遅かったら、命はなかったのかもしれない。
英男さんは、旧日本領木浦府生まれ。
八人兄弟の三男として生まれ、終戦と同時に帰国(帰国後ほどなくして一人弟が死亡)。
終戦時に蓄えていた財産は全て持ち帰ることが出来ず、木浦府で使用されていた紙幣は、帰国時にはすべて紙切れとなったしまったという。
帰国後も、小学校三年生からは、雪の日でも靴を買うお金がないため裸足のままで新聞配達をし家計を支えていたという。
また、中学もまともにいけないまま鉄筋業に弟子入りし家計を支え続けた。
その後、独立。
多くの社員を雇うまでに会社を急成長させたという。
会社も順調に推移してくると、親兄弟が英男さんを頼ってくるようになった。
英男さんが30歳の時、美容師だった久美子さん(仮名)と結婚した。久美子さんには3歳になる女の子(紀子さん:仮名)がおり、小さい頃はとても可愛がっていたが、下に弟(松隈さん)が生まれると紀子さんに対しての対応が厳しくなっていったという。
そんな親兄弟も金銭面で面倒をみたり、三男でありながら親の世話を最後までみたという。
半面、金遣いも荒く、飲食費やパチンコ、女遊びなど派手になっていったようだ。
久美子さんとの仲も、紀子さんのしつけの考え方の相違や両親の介護問題で徐々に夫婦間に亀裂が入るようになっていった。
そして、子供達も成人し、紀子さんが結婚。
一女をもうけるも、統合失調症を発症し、離縁され実家に戻されることになった。
英男さんは、松隈家の籍には入れないと頑として聞かず、子供は父親側に引き取られ、紀子さんは個別の戸籍を作り、精神科に入院することとなり、益々夫婦間に溝が出来ていったという。
松隈さんが独立して25~26年経ったころ、英男さんは膵炎で倒れ、長期入院となった。
英男さんが親方でやっていた会社はみるみる傾き入院中に会社が倒産してしまったのだ。
あれだけ英男さんの元に集まって来ていた兄弟姉妹も全く来なくなり、誰一人寄り付かなくなった。
退院後、久美子さんはパートで家計を支え、頑張ってはいたが、一度入った二人の溝は修復できず、年金が受給出来るようになると、久美子さんは英男さんの元を離れ、実家で実母と暮らすようになっていた。
そして、今回の低血糖事故が起きた。
英男さんは、一カ月の入院生活を経て、退院の話が出てきたが、どこで誰と暮らすのかが問題になってきた。
そこで、松隈さんは、母親である久美子さんに頭を下げ、今回の経緯を説明し、英男さんの世話をして欲しいと依頼した。
久美子さんは、実母も亡くなり、家庭菜園を楽しみながら一人暮らしを満喫していた。そんな時、今回の突然の話だったのでかなり困惑していたが、子供の頼みなら・・・と、渋々英男さんの元で暮らすことになったのだった。
10年ぶりの夫婦生活がスタートしたが、久美子さんは、英男さんの世話をするために戻ってきたようなものである。
気ままなひとり暮らしから生活が一変。
食生活は、闘病病のある英男さんに合わせ、家事一般をすべて久美子さんが行うようになった。
英男さんも自ら外出できるようになり、以前のように喧嘩が絶えない夫婦生活に戻りつつあった。
そんな夫婦関係が2年過ぎようとした頃、突然、英男さんが肺炎で入院したと久美子さんから松隈さんの元へ連絡があった。
あの時と同じ、深夜に車を10時間も走らせた。
翌朝、医師から病状の説明があった。両肺が真っ白でかなり危険な状態だと・・・。長くて一週間でしょうと・・・。
最後に、医師から延命はどうするかと尋ねられた。
久美子さんも松隈さんも延命は望まず、苦痛の緩和だけをお願いした。
英男さん、享年81歳。
久美子さんに看取られて亡くなられた。
戦中戦後を生き抜き、両親と兄弟のために頑張った英男さん。
自分の生活を犠牲にし、夫と夫の家族に仕え、そして子供のためにと生きた久美子さん。
夫婦の生き方は人それぞれ・・・。
久美子さんにも残された人生を幸せに生きてほしいと願う。