特別養護老人ホームの居室の窓は歩道に面しており、地域住民が自由に行き来できるようになっています。
この歩道は、車椅子もスムーズに移動でき、歩道の側面にはボランティアさんが季節ごとの花を植えて下さるので、施設の入所者や利用者がお散歩するにはとても良い癒しのコースとなっていました。
ところが、最近になり、その歩道に糞便が転がっていることが多くなり困っていました。
多分、近所の方が犬の散歩の際に放置していったのかと思い、施設では、犬の糞の後始末をお願いする立看板を作り、いつも糞が放置してある場所に立てかけました。
ある日、私がその歩道を利用者数名と散歩していると、居室の窓から歩道へ向かって何かが放り投げられたのです。
近づいて投げられたものを確認すると、それは”便”だったのです。
私たちが犬の糞だと思っていたのは、その居室から投げられた人の便だったのです。
その居室の住民は、李ジヒョンさん(仮名:韓国籍)でした。
特別養護老人ホームに入所し半年になる認知症の方です。
李ジヒョンさんは、終戦後も日本に残り、炭鉱で働いていた同じ韓国籍の男性と結婚し、昭和45年頃から夫と二人でホルモン焼のお店を経営していたが、夫が病死した頃から認知症の症状が出てきたといいます。
ジヒョンさんには二人の娘がいましたが、二人とも日本人の男性に嫁ぎ、孫が生まれると、二人の娘さんは日本国籍を取得したといいます。
夫の死後、ジヒョンさんが一人暮らしとなり、日本語があまり話せないジヒョンさんは他者との交流も少なく、認知症を発症させたのかもしれません。
ジヒョンさんは、日本語が話せないのが職員とのコミュニケーションを困難にしていたのも事実です。
一日の殆どを居室で過ごし、お腹が空くと廊下に出ては様子を伺いながらしゃがみ込み職員の動向を観察しながら過ごしていました。
職員が声を掛け、食堂に誘導するも動こうとせず、その場で座り込んでしまうのでした。
職員二人がかりで抱きかかえ、食堂のジヒョンさんの席に座らせ、職員が側を離れると、スプーンを片手に一気に食べ始めると言った状態でした。
お風呂は、食堂へ行くよりも嫌がり、浴室へ連れて行こうとすると暴れて、「コジョ!」「コジョ!」(消え失せろ!死ね!)と叫び、職員の腕に噛みつくのは日常茶飯事で、週2回の入浴が限界でした。
トイレ誘導も困難を極め、浴室への誘導時と同様、「コジョ!」「コジョ!」と叫び、暴れ、職員の腕に噛みつくのです。
ジヒョンさんの居室にポータブルトイレを設置して様子見る事にすると、ポータブルトイレに排泄出来ることが分かりました。
しかも、排泄動作は自立していることが分かったのです。
介護職員は、定期的にポータブルトイレの排泄物を片づけるのですが、排泄チェック表を見ると、一週間も排便が無いことがあり不思議に思っていたのですが、ジヒョンさんは、排便がなかった訳ではなく、排泄した自分の便を外に投げ捨てていたのです。
介護をしようとすると、叩いて来たり蹴ってきたり、腕を噛まれたり・・・多くの介護職員が自分の体が傷つくことに耐えられなかったのも事実です。
認知症でも体力十分で、力の加減ができない高齢者の暴力等は、「仕事だから」で耐えられる範疇を超えていました。
私は、ジヒョンさんの心の内を探ろうと、ジヒョンさんと一緒に過ごす時間を増やしてみました。
ジヒョンさんは裸足で過ごすことが多く、靴下をはかせても直ぐに脱いでしまうのだが、その日はすごく寒い日でだったので、椅子に座っていたジヒョンさんに近づき靴下をはかせようとしゃがんだら、頭をすごい力で殴られてしまいました。
「ジヒョンさん、叩いたら痛いよ!」と言ったら、ジヒョンさんは、バツの悪そうな表情を見せたのですが、その後もジヒョンさんの暴力は続きました。
その後も、娘さんから元気だったころのジヒョンさんの情報を得ながら、ジヒョンさんの居室で、衣類の繕い物をしたり、編み物をしたりしながら過ごしてみました。
最初の頃は、私の行動を見ているだけのジヒョンさんでしたが、2週間ぐらいたったころでしょうか、ジヒョンさんに針と糸を持たせたところ、立派な雑巾が出来上がったのです。
少しずつですが、ジヒョンさんと私の距離は近くなっていきました。
その後も、多くの職員の創意工夫で、ジヒョンさんの居室をトイレ付きの部屋に変更したり、入浴も個浴にするなどしながらジヒョンさんのQOLに努めました。
そんな矢先、ジヒョンさんが脳梗塞で倒れました。
一カ月の入院期間を終え、施設に戻ってきたジヒョンさんは右半身麻痺の寝たきりになっていました。
今となっては排泄、入浴、食事等の全ての介助が必要になったジヒョンさんですが、何故か手間のかかったジヒョンさんが懐かしくもありました。
ジヒョンさんは、認知症と診断されてはいましたが、日本語がもう少し理解できていれば、多くの職員や利用者とも交流が図れていたのかもしれません。
二人の娘さんの面会時には韓国語でお話していたようですが、ジヒョンさんは、いつも故郷の地が恋しかったのか、「帰りたい・・・帰りたい・・・」と言っていたようです。
ジヒョンさんは、脳梗塞発症後の5年後、施設内で職員と家族に看取られて亡くなられました。
享年90歳でした。