田中さん(仮名)は、60歳の時に精神科病院から特別養護老人ホームへ措置入所して来ました。
身元引受人は、○○町長。
身寄りはいません。
田中さんは、養護施設で育ちました。
中学卒業後は職を替えながら全国を転々としながら生活します。
十代後半で統合失調症と診断され、精神科に入退院をくり返してましたが、退院すると服薬管理が出来ず、症状は悪化するばかりで、25歳頃には退院することも出来なくなり、精神科病棟での長い生活が始まりました。その後も田中さんは生活援助する人に恵まれず、特別養護老人ホームへの入所するまでの35年間を精神科病棟で過ごすことになったのです。
田中さんの母は、田中さんが10歳の時に結核で亡くなりました。
戸籍上父親はいませんでした。
母親が亡くなると、田中さんは養護施設へ入所し生活することになりました。
幼少期を戦争の中で過ごし、貧困と飢餓に苦しんだ世代です。
養護施設での生活も大変だったと推測されます。
敗戦が決まると世の中は大きく変わり、軍国主義教育をしていた小学校で民主主義を教えられるようになりますが、田中さんは、敗戦を受け入れることが出来なかったのか、軍歌を好んで歌っていたと言います。
田中さんは、精神科病院に入院中の50歳の時に、握った手が開きにくくなったり、固い物が噛みにくくなったり、転びやすくなっていたため脳神経内科を受診させたと言います。
受診や検査も簡単ではなかったようで、最初の受診から一年後に筋強直性ジストロフィーと診断されました。
当時の田中さんは、昼夜構わず大声をあげたり、不穏になることがあり、一般病院での入院治療は出来ず、精神科病院で服薬管理で様子をみることとなったようですが、服薬を拒否し続け、田中さんの両下肢は動かなくなり、両上肢も辛うじて箸が持てるくらいまで低下していきました。
当時の田中さんを知るMSWも退職していなくなり、当時の情報は十分得られませんでしたが、いつしか脳神経外科への受診は無くなったと言います。
現在でも、精神疾患を罹っている方の中には、身体疾患の治療が必要であるにもかかわらず、精神疾患があるために必要な治療を受けられていない方がいると言われています。
また、元々精神疾患に罹患していなかった方でも、様々な身体疾患を原因として著しい精神症状が現れ、一般病棟での入院治療が困難となる方もいると言われています。
本来なら、このような方々に精神症状の有無に関係なく必要な治療を受けて頂き心身の健康を回復していくべきだし、身体症状の改善により精神症状が改善されることも少なくなく精神症状と身体症状は切り離して考えられるものではないと思いますが実態はそのようです。
こうして田中さんの特別養護老人ホームの生活はスタートしたのですが、共同生活には大きな問題がありました。
入所日、精神科病院から病院の職員に付き添われて車いすに乗った田中さんが入所してきました。
施設内放送で田中さんの入所が案内されると、玄関には多くの職員や入所者の方々が集まり、田中さんをお出迎えしました。
職員や入所者さんから「こんにちは!」「いらっしゃい!」「待ってましたよ!」との声が田中さんを歓迎しています。
すると、見る見るうちに田中さんの表情が険しくなり、突然、大きな声で「うるさい!」「うるさい!」と言い、軍歌を大声で歌い始めました。
♪行ってくるぞと勇ましく~誓って家を出たからにゃ~・・・
♪お前と俺とは同期の桜~同じ航空隊の~・・・
田中さんは、入所時の身体測定を行うため、看護師によって医務室へお連れしました。
しばらくして町の福祉担当者が来られ、様々な手続きが行われ、担当者は「よろしくお願いします。」とだけ挨拶し、田中さんに会うこともなく帰って行かれました。
「田中さんに会っていかれますか?」とお聞きしたのですが、返事は「大丈夫です。」でした。聞くだけ野暮でした。
入所後の生活援助は困難を極めました。
まず、女性介護者の介助を嫌がり、排泄介助は勿論、入浴介助全てを男性が行います。
当時、男性職員は1割程度しかおらず、夜勤に必ず1名を配置するのが大変でした。
さらに、時々尿閉になる田中さんには導尿が必要でした。
男性の看護師がいなかったので、複数の看護職員で導尿を行っていたように記憶してます。
入所者との関係も難しく、女性の多くは田中さんを怖がりました。
突然、大声をあげる田中さんを避けて、田中さんがいる場所へは近寄らなくなりました。
心無い入所者からは、「キチガイは精神病院に行けばいいんだ!」「キチガイは死なないと治らんわ!」などと田中さんを罵倒します。
田中さんを苦手とする介護職員も出てきました。
しかし、田中さんを病院へ帰すことはもう出来ません。
生活相談員、介護職員、看護職員で田中さんの処遇について話し合いました。
話し合いの最中、男性介護職員(永井信昭さん:仮名)が、「僕が担当者になります。精神科に入院して35年・・・僕だったら耐えられません。縁あって田中さんはこの特別養護老人ホームへ入所してきてくれたのです。田中さんの老後を僕達の力で幸せにしてあげませんか?」と・・・。
永井さんは介護福祉士の専門学校を卒業した2年目の職員でした。ひとりっ子で両親とも障害者です。
他の入所者が田中さんに否定的になっても仕方がない、でも、福祉に携わる職員が、否定的な意見や考えを持っていることが辛かったと言います。
永井さんは、田中さんと人間関係を築いていきました。
施設の許可を取り、休日に出勤しては、田中さん苑外に連れて行きました。
公園は勿論、スーパー銭湯にも連れていきました。
そんな永井さんの行動に、他の職員の意識も変わっていきました。
田中さんが入所して10年が経ちました。以前と比べると穏やかになっていました。
相変わらずちょっと気に入らないことがあると軍歌を歌い始めますが、大声で怒鳴るようなことがなくなってきました。
上肢の筋力低下も進み、食事もやっとで口に運べる程度に落ちていきました。
咀嚼や嚥下にも支障をきたす様になり、食事形態や食事介助も含めて見直しが必要だと感じていた時に事故が発生しました。
私が出勤すると、多くの入所者が朝食を食べ終わり、ある職員はトイレ誘導したり、ある職員は下膳をしたり、ある職員は食堂近くの洗面台では口腔ケアをしたりと忙しい時間帯でした。
田中さんも、朝食を食べ終わり、口腔ケアを車いすに座って待っている時だったと思います。前かがみになり今にも車いすから転げ落ちそうになっている姿を発見しました。
「田中さん!」と声を掛けると、顔面が蒼白になった田中さんの姿がありました。
近くにいた介護職員に声を掛け、田中さんを床に寝かし、口腔内にあったものを吐かせ吸引器で吸引しました。
「救急車!」
「AED!]
救急車が到着するまで、他の看護師と蘇生に努めました。
10分後、田中さんを病院へ救急搬送しましたが、田中さんの意識は戻りませんでした。
田中さんの10年間の施設生活は楽しいものであったかどうかはわかりません。
病院と違う点は特別養護老人ホームは「生活の場」であり、家での生活と同じように捉えると、やはり「終の棲家」としての意味合いが濃く、人生の最終ステージを自宅で暮らすことと施設で暮らすことは同じように捉えられると思います。
「人は自らの最後をどこで迎えるべきか」という問いに対し、普遍的な答えを用意することは不可能でしょう。また、本人の決定を尊重するといっても、その人が本当に息途絶える瞬間の気持ちは誰にも分かりません。
つまり、人の最後の迎え方は千差万別であり、それは本人のそれまでの生き方によって決定されるべきだと考えます。