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幸せな死とは

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父との別れ

人生の終焉は平等にやってくる
人生の最期をどこで誰とどのように迎えるかは千差万別であり、その人の生きざまの結果なのだと思う。

今、誰に逢いたいかと尋ねられたら、迷わず『父』と答える。
父が最期を迎えたのはホスピスのベットの上だった。

ホスピス:ターミナルケア(終末期ケア)を行う施設のことを言います。

父の最期を迎える場所として、これで良かったのかどうか、考えてしまう。
母と姉と相談して決定したことではあるのだけど・・・もっと最善な方法があったのかもしれないと・・・。

父、86歳の秋、実家の姉から電話があった。
三日前まで大好きなお刺身を酒の肴にして、大好きな冷酒を飲んでいた父が、全くご飯が食べられなくなったとのこと。
10代からたばこを吸い、お酒も飲み始めた父。
45歳の時、肺結核になり療養所に2年間強制入院となったとき以外は、たばこと酒が人生の友となった。

父は本当に健康体だった。
病院嫌いとかではなく、病院へ行く必要がなかったのだ。

殆ど物を口にしなくなって三日目、嫌がる父を姉が病院受診させた。
胃と腸の内視鏡検査を行ったところ、大腸癌が見つかった。既に大腸は壊死し始めていた。

諸検査をしたら、他の臓器にも転移が見つかり、余命3か月と診断された。
翌日、ストーマ(人工肛門)増設の緊急手術が行われることとなり、急遽、実家に帰ることにした。

父には大腸がんだと事実を説明した。
一瞬、表情が変わったものの、「昔から腸は悪かったからなぁ~・・・100歳まで余裕に生きられると思っていたけど」とつぶやいた。

その時の寂し気な表情は今も忘れないが、死を覚悟した表情でもあった。

旧国鉄時代を懐かしむおじいちゃん

そして、山下も平井も先に逝っちゃったからなぁ~・・・と旧国鉄の機関区時代の同期であった友の名を口にした。
国鉄時代が父が一番生き生きしていた時だったのだと思う。

ストーマを増設して10日が経ち、父は退院した。
癌は、間違いなく父の体を蝕んでいるが、見た目は、便が肛門から出ないだけで、今までの生活と変わらない日々に戻った。

さすがにたばこは止めたが、晩酌は今まで通り飲み始めた。
母は反対したが、私は、残り少ない人生を好きなようにさせたかった。

余命3カ月と言われた父が、最後に迎えた大晦日、私の主人と酒を飲み交わした。
娘しかいない父は、婿とお酒が飲めることを心から楽しんでいた。
また来年も同じようなお酒が飲めると思えるくらい元気だった。

余命三カ月と言われた秋から半年を迎えようとしていた。
父に最期にどこか行きたいところはないかと尋ねたら、父は伊勢神宮に行きたいといった。

体重も40キロ台となり、徐々に体力を消耗する中、今の状態では難しいとも思ったが、母、姉夫婦、私達夫婦の6人で三重県の伊勢市までの旅を決行した。
伊勢神宮の長い砂利道を主人が車いすを押し、階段を抱え上げ、伊勢神宮に参拝を果たした。
父も満足だったと思う。

最後のお伊勢さん参り

そして、4月に入り美しい桜の花が見られた。
鮎釣りと、松茸狩りが趣味だった父・・・冷凍してあった鮎の塩焼きと松茸ご飯を炊いて持っていき、薄めた梅酒もひとくち口にした。

車いすで、ほんの短い時間の花見であったが、男の子に恵まれなかった父は、私をどこにでも連れて行った。
一緒に鮎釣りに出掛けた時のこと、一緒にキノコ狩りに行った時のことを懐かしそうに話してくれた。
最後に、母に向かって、「娘二人でよかったなぁ~」とつぶやいた。

4月25日、父は帰らぬ人となった。
87歳の誕生日の直前であった。

高齢者は、寝たきりや認知症になったとしても、「自分はこうありたい」と思っている。
援助者は「そのひとらしさの実現」を援助する事が大切。

また、一人ひとりの高齢者を看護・介護する際には、その人がどのような生活史を持つ人なのかを理解する必要があり、生活史を理解する上でその人が生きてきた時代を理解することも大切だと思う。

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