特別養護老人ホームの朝は早いです。
6時頃から起床介助、排泄介助、トイレ誘導、着替え介助、食堂への移動介助・・・早番の職員が出勤してくるまでの時間、夜勤の職員にとって最も忙しい時間です。
施設に入所している方々を順番に食堂に誘導し、配膳の準備を始める7時半ごろになると、「おはようございます!」大きな声が食堂に響きます。
鈴木錠一さん(仮名)のお出ましです。
そして、錠一さんの元気な「いただきます!」の挨拶で朝食がスタートします。
新年が明けた一月の寒い朝、いつもなら朝食の配膳前には食堂まで自力で移動してくる錠一さんが来ていません。
担当の職員が居室まで声を掛けに行きました。
「錠一さん!」と声を掛けますが意識がありません。
食堂にいた看護師を呼び、救急車を要請しました。
私が、職員駐車場に車を停めた時、近くで救急車のサイレンの音が聞こえました。
とっさに、うちの入所者に何かがあったのだと急いで施設内に入りました。
「えっちゃん!錠一さんの意識がありません!」
私は急いで錠一さんの居室へ急ぎました。
看護師と介護職員が人工マッサージをしていました。
救急車が到着して、私は錠一さんと一緒に救急車に乗り込みました。
救急隊員が、ルート確保し、アンビューを動かしています。
救急車が病院へ到着し、救命センターへ運ばれました。
しばらくして、救命センターの医師が、私に尋ねました。
「ご家族は?延命を望まれますか?」
私は、「この方の身元引受人は○○役場です。延命は望みません」と・・・。
しばらくして、錠一さんは息を引き取りました。
死因はクモ膜下出血でした。享年78歳でした。
私が錠一さんと出会ったのは、もう十数年前、隣町にある老人保健施設の面接室でした。
車椅子に乗った錠一さんは脳梗塞の後遺症で左半身が麻痺していました。
認知症もなく、身の回りのことは殆どできるようになったと言います。
とは言っても、在宅での一人暮らしは出来ません。
錠一さんが暮らしていた町営住宅も脳梗塞で入院中に契約を中止したため、戻る家がなく、病院を退院後は老人保健施設に入所し半年経過していました。
町役場の人に紹介された私は、錠一さんに「こんにちは!」と挨拶すると、「今度移る施設の人か・・・よろしく頼みます」と言って、施設の移動を既に理解していました。
こうして、錠一さんの特別養護老人ホームでの生活がスタートしました。
錠一さんは身寄りがなく、町役場が身元引受人となり、措置入所に至った方ですが、施設の中でもADLが良く、他の利用者との交流を嫌がりました。
錠一さんの施設生活での希望はただ一つ。晩酌をすることでした。
脳梗塞を発症して入院してからはお酒を口にしていませんが、それまでは毎晩の晩酌が唯一の楽しみだったと言います。
それまでは、施設での晩酌は例がありませんでしたが、”錠一さんの唯一の希望である晩酌をさせる為にはどうしたら実現できるか”で話し合いを始めました。
施設長、嘱託医、生活相談員、看護師、介護職員、管理栄養士がそれぞれの立場でそれぞれの意見を述べます。
介護職員の熱意が通じてか、錠一さんの希望である晩酌は、一定のルールの中で実現することになりました。
飲酒は、夕食後のみにすること。
飲酒の量は、ビールなら1缶、日本酒なら1合にすること。
休肝日を設けること。
他の利用者には渡さないこと。 etc
錠一さんは、施設入所後に介護職員に「病院にいる時も老人保健施設にいる時もお酒は禁止で本当に詰まらんかった。お酒しか楽しみがないのにな・・・」と。
介護職員は「ここは錠一さんの家ですから・・・自由に生活できて当然ですよ!」と・・・。
その後も、錠一さんのお誕生日には居酒屋へ出かけたり、お正月や夏祭りなどのイベントの時は少し量も増やしてあげるなど臨機応変に対応して錠一さんの施設生活のQOLは拡大していきました。
話は戻ります。
私は、町役場に連絡し、亡くなられた錠一さんの今後にについて相談しました。
町役場は、直葬して、無縁仏に納骨すると言いましたが、病院の霊安室に長時間安置することは出来ません。
私は、葬儀会社に連絡し、錠一の遺体を引き取り、特別養護老人ホームの霊安室に安置することにしました。
施設に戻った錠一さんの表情は、とても穏やかで、声を掛けたら今にも起きて来そうな気がしました。
錠一さんの枕元には、笑顔の錠一さんの写真と一緒に、ロウソクと線香、そして錠一さんの大好きだった日本酒とビールをお供えしました。
錠一さんが施設に戻ってきたことを知った職員が霊安室に集まり、錠一さんを偲び、一緒に過ごした楽しい時間の思い出に花が咲きました。
私は、施設内でお通夜と葬儀を執り行うことを計画し、錠一さんの宗教は分かりませんでしたが、法人の理事でもあるお寺の住職さんにお経をあげてもらうことにしました。住職さんも快くお受けいただき、無事に葬儀を済ませることが出来ました。
火葬も終わり、仏さまになった錠一さんの遺骨はお寺で預かっていただくことになりました。
町役場は、相続人が本当にいないのか、調査を始めました。
錠一さんがなくなられて5日後、町役場から連絡がありました。
家族が見つかったというのです。
錠一さんの実の兄の子供である姪が見つかったというのです。
町役場から錠一さんの姪に事実が伝えられ、錠一さんの遺産が1千万円近いことも説明されました。
一週間後、錠一さんの遺留金品が姪御さんに引き渡される日になりました。
みすぼらしい洋服に身を包んだ姪御さんは、遺留物品の中から時計などの金目の物だけを持ち出し、後は処分してくださいと言いました。
施設で預かっていた預貯金は、そのまま姪御さんにお渡ししました。
姪御さんは、無造作に持ってきた薄汚れた黒のボストンバックの中にお金を納め、遺骨を風呂敷に包んで帰って行かれました。
錠一さんには月額二十数万の厚生年金がありました。
特別養護老人ホームで生活するには余りある年金額です。入所費用と日常生活費を使っても月に十数万は残っていきました。
引き渡しには町役場の担当者が立ち会いました。
「えっちゃん、色々とありがとう。申し訳なかったね・・・」
「警察にも協力を得て親族を見つけてもらったんだけど、錠一さんは、戦後、強盗殺人で10年服役した後、土木作業員としてこの町で真面目に働いたんだよ。」と・・・。
戦後の食糧難で生きていくためにどうすることもできず犯罪を犯し、親や親戚とも縁を切られてこの街にやって来たらしい。
その後は土木作業員として真面目に働き、しっかりとした年金をもらえるまで頑張ったとのことでした。