えっちゃんのブログ

障害と共に生きる

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加藤知子さん(仮名:65歳)がヘルパーさんに付き添われて特別養護老人ホームの見学に来られました。

「将来的には施設のお世話にならなくてならないと思っています。入所する施設を自分で見ておきたい。」というのが智子さんの希望でした。

施設内を案内しながら、知子さんは、リクライニングの車いすに寝かされている入所者の姿を見て、「私の将来の姿ね・・・」とつぶやかれました。
呂律障害と構音障害のために発話が難しくなっているのだと感じました。

知子さんは、45歳を過ぎた頃、手の震えや歩き始め、立ち上がりがスムーズにいかなくなり、近所の内科に受診し、しばらく通院していたそうですが、一向に良くならなかったそうです。
知子さんは、遠方にいる実兄も同じような症状があったことを思い出し、兄に電話連絡すると、兄は、脊髄小脳変性症と診断され大学病院に通院中でした。

知子さんは、もしかしたら私も?・・・不安になりながら、県立病院の脳神経内科を受診しました。
不安は的中します。病院では様々な検査が行われ、知子さんも脊髄小脳変性症と診断されました。
脊髄小脳変性症には根本的な治療法は確立されておらず、進行はゆっくりではありますが進行性の病気です。

脊髄小脳変性症

脊髄小脳変性症とは
小脳、脳幹、脊髄が徐々に萎縮してしまう疾患であり、箸がうまく持てない、よく転ぶといった症状から始まり、進行するにつれて歩けなくなったり、字が書けなくなったりする。最終的には言葉も話せなくなり、寝たきりになり、最悪の場合は死亡する疾患である。小脳、脳幹、脊髄が萎縮していっても大脳は正常に機能するため、知能には全く障害がない。つまり、体が不自由になっていくことを自分自身がはっきりと認識できてしまうのである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』書籍「1リットルの涙」より

知子さんには大きな問題がありました。

当時、知子さんには14歳の脳性麻痺の美紀さん(仮名)という娘さんがいました。
新生児仮死で生まれ、半年後、脳性麻痺と診断されて、知子さんは、病院で一緒に過ごすことになりました。

出産から一年後、美紀さんは退院する事になりましたが、知子さんの夫は、知子さんと美紀さんの元から去っていったと言います。
知子さんは、障害を持った美紀さんの養育や対応にいっぱいで、夫をかまう余裕なんかありません。
夫の関心は、家庭外に向かい、浮気をし、新たな家庭を持ってしまったのです。

わが国の障害児がいる家庭の離婚率は、健常児世帯の約6倍と言われています。

障害児の子育てには計り知れない責任が伴うため、心身ともに大きな負担となります。
とくに若い夫婦では社会経験や人生経験が十分でないことから、離婚率も高くなると想像されます。

特に父親に多いのですが、障害を持った子どもを理解せず、あるいは受け入れられない方がおられます。
母親は、子どもを妊娠して出産するまでの10か月間に、子どもに強い愛着を抱くようになり、子どもが生まれたときには既に「お母さん」となっています。子どもが障害を持っていても、そうでない子ども(健常児)の場合と同じように、受け入れやすいと言います。

子供の障害が理解できず離れていく夫

一方、父親は、子どもが生まれたときにはまだ父親になっていません。子どもと一緒に成長して、父親になっていくものです。
ところが、子どもに障害があることがわかると、その時点で現実を受け入れることができなくなってしまったり、子どもを理解しようという気持ちが失せてしまったりするのです。
すると、「母親」として子供を守ろうとする妻と、子どもを受け入れず、どう接して良いかわからない「父親」との間に溝が生まれてしまいます。

さて、知子さんと美紀さんの生活は困難を極めます。
最初の頃は、休養したくても預けるところがなかったと言います。

行政の窓口に相談をすると、まず家族構成を聞かれ、そして必ず「祖父母の協力は?」と聞かれたと言います。
行政で対処するよりも前に、別世帯の祖父母に負担をかける方を優先するという発想がおかしいのではないかと思っていたと言います。
「子どもは親だけが育てるもの」という暗黙のルールがあり、大きな壁に押し潰されそうになったそうです。

形式で断る行政の対応

口からミルクを飲める量が次第に減り、号泣とけいれん発作が増えて、眠れない日々が続いたそうです。
知子さんの頑張りも空しく、口からの栄養摂取が難しくなり、鼻から胃に経管栄養チューブを入れる「医療的ケア」を必要とするようになりました。
このころの知子さんは精神的にボロボロで、美紀さんを連れてベランダを乗り越えかけたこともあったと言います。
朝を迎えるのも夜を迎えるのも辛く、途方もなく長い1日が続いたと当時を振り返りながら、やっと、美紀さんが施設に入所できて、ほっとした矢先、知子さんの脊髄小脳変性症が発覚したのです。

知子さんの脊髄小脳変性症の症状は緩やかですが進行していきました。

手が震え、箸を使ったり、字を書くなどの細かい動きが難しく、足の運びが悪くふらついて歩きにくく、呂律が回らず言葉が滑らかに出ない、などの症状があります。

将来的に、嚥下障害が進み、口から食べることが困難になれば、鼻からチューブを挿入し栄養剤を注入する経鼻経管栄養や、直接、お腹の壁から胃に管を入れる胃ろうを行うことがあります。

飲み込みの障害と唾液の垂れ込みが進んだ場合、気管切開と合わせて、喉頭気管分離術という手術を行うこともあります。

辛うじて車いすで生活しているおばあちゃん

この時は、辛うじて車いすで生活していらっしゃいましたが、排尿障害が進行した場合は1日数回に分けて自己導尿をしたり、尿道カテーテルを留置しなくてはなりません。
排便が十分でない時は浣腸や摘便が必要ですし、便秘が悪化すると腸閉塞をきたすこともあります。

知子さんは、その後、誤嚥性肺炎で病院に入院することになり、その後、胃瘻を増設したと言います。

知子さんは、特別養護老人ホームへの入所は出来ないまま、美紀さんを残して3年後に亡くなられました。

障害のある子供を残して先に逝く親は本当に辛かったと思います。

お話は変わりますが、以前、自立支援認定委員のお仕事をさせていただいたことがあり、その際に小児科の医師と話したことがあります。

終末期の子供に延命治療を続けると、子どもの尊厳を冒す場合もあるのだと言われました。

また、救命センターの医師が新生児仮死の子供を一生懸命助ける。
しかし、その子供が障害者となった場合の両親の離婚率は80%もあるのだと・・・。
この小児科医は、障害者を持つ両親の苦悩を嫌というほど見てきたという。

とある小児科医の意見

子供が助からなかった瞬間は悲しいと思う。その時は、こう声を掛けたという。
「今は辛いかもしれない。でも、お母さんが健康なら次に生まれる子は元気だから・・・。」と。

普通に考えると子供の命を軽視しているかともとられる言葉かもしれませんが、今、この子が助かったとして、障害者になり、その後の何十年という長きにわたり子供さん本人と親御さんが受け続けるであろう苦労を実際にそういった生活状況を身近に見てきたからこそ言える言葉だと思いました。

美紀さんは母の死を知らないまま、重度心身障害者施設で暮らしています。

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